どんなに外側が静かな夜でも、
脈拍のリズムには生命が宿って、
日々の営みを雑音に変えていく。
興味のある風景だけを見ていたいけれど、
生息地を住民票に明記された僕らには不可能で、
一人一人が絶滅危惧種でありながら、
その存在は統計的に扱われてしまうだけだ。
今日という1日を個人名義で刻んでいるようで、
他人の記憶と記録の両方に残ることは無い。
その代わりに、いつ消滅するのか不確かな自分自身という石に、鋭利な物質を利き手に持ち、証明を刻んでいく。
まるで胸をえぐるような作業になるが、他に方法は見つからない。
できることなら、他人の墓石に日付を明記して私の歴史を掘削して刻みつけたいが、非常に残念ながら配偶者や子息を除いて共に生きた証を後世に残すことはできない。
共生しながらも奪い合い、疑うことで信用を排除し、人間が見つめる世界では目をつぶりたくなることが多々、事象化される。
具体性を持てばやや恐怖は薄れるが、水面下で進行する裏切りには常に感覚を研ぎ澄ませておく必要があり疲れる。
表舞台の栄光は裏方の細やかな努力を伝えたがり、演者は用意された舞台に立っただけだという嫉妬の渦に存在意義を見失う。
さて、こんな生産性の欠片もない理解を枕元に夜明けを迎えたとしても、明日は平静を装わなければならない。
夏祭りに出店に並ぶお面はどれも表情が規定されていて、感情とは無関係に顔を複製する。
本当に君に見せたい表情はどれだろう。
君が隣で寝息を立てていてくれるなら、少しは楽に思考できるのに。