狂いと悟り

狂うことと悟ることというのは、
とても近いところにあるんだろうなと思う。

狂うことを肯定した時に、
そこから数歩、距離を置いてみた時に、
客観視された狂いは悟りとなって頭の骨の内に共鳴するような心地よい音階を結ぶ。

この世界は鳴り止まない時報のように、
常に瀬戸際を告げる警鐘で構成されていて、
またひとつ、今日もまたひとつと耐えられないほどの狂乱を目にすることになる。

僕たちは飼い慣らされた幼児のようにそれが「普遍だよ」と言い渡されて、
そういうものなんだと希釈したカルピスのように原液の危うさは暈されているけど、
解像度の高いレンズで見てみると、その像が酷く歪で、
眼球の中で像を結んだ途端に何気ない日常が吐き気に変わる。

その嘔吐感が人の生きる上での避けられないものであり、
残念ながら人生を豊かにするものと表裏一体であることは、
ある程度の人となりを歩んで来たならば、自ずと理解するものだ。

さてこの必要以上に濃い原液と、どう付き合っていくのか。
このまま余生を過ごしたとして、理想とする現実には辿り着くのだろうかという設問に解を求められる。

我が人生を狂った秒針のように、進むのか、後ろに向かうのか、もはや曖昧な古時計で、
正確に時を刻まないものとして傍観するのも、ひとつの嗜みなのかもしれない。

振り子の原理で時間を先に進める以上は、
左右が対称な、几帳面な世界の中に重心を置くしか無いんだ。

そんなバランスのとれた世の中などあるだろうか。
教えられた1秒間と、歴史に残る出来事の間には相関性なんて無い。

有限な時間の中で、狂ったように生きるのか、
悟ったように生きるのかは、選択肢として僕らを試す言うなれば「運命」と呼ぶものなのだろう。

狂えば歴史に残る、悟れば教科書に残る。
そんな、紙一重のバランスこそが、真実を左右するものなんだと思うよ。

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